カローデンの戦いはスコットランドの歴史を語るのに避けては通れません。日本史でいうと、関ヶ原の合戦でしょうか。日本で戦国時代が幕を閉じたように、100年続いた戦い終わった瞬間です。
ステュアート朝の復活をめざして
1745年のジャコバイト蜂起は、ジェームス・フランシス・エドワードの英国王位奪還のために、息子チャールズ・エドワード(ボニープリンス・チャーリー)がおこなった挑戦です。(チャールズはフランスで育っていて、このときスコットランドに初めて上陸しました)
チャールズの祖父は「名誉革命」で王位を逐われたジェームズ2世
1869年の「名誉革命」で王位を逐われたジェームズ2世はチャールズの祖父にあたります。ジェームス2世は親カトリック政策をおこなったために議会によって追放されました。
イギリスの王位はメアリ女王&夫ウィリアム3世を経て、アン女王へと継がれました。メアリ女王もアン女王もジェームス2世の娘でしたので血筋には問題がなく、またプロテスタントだったのでイングランド議会からは過激な反対はありませんでした。しかしメアリ女王には嫡子がなく、アン女王の子供たちは早世しました。
ステュアート朝からハノーヴァー朝へ
イギリスでは「王位継承法」が成立し、王位継承権はプロテスタント教派に限ることが法律で定められました。ステュアート家のアン女王亡き後、もっとも近縁にあたるプロテスタント教派としてドイツ地方のハノーファー領主ゲオルグが招聘されることになります。ゲオルグは母方からジェームズ1世の血を引いています。1714年にジョージ1世として戴冠し、ここにハノーヴァー朝が誕生しました。
このような背景からカトリック教派であったジェームス2世の息子と孫にとって、復位はむずかしいものになっていたのです。チャールズが蜂起した1745年は、ジョージ2世の治世にあたります。
Charles Edward
1745年の反乱は、オーストリア継承戦争の最中に引き起こされました。ほとんどのイギリス軍が、ヨーロッパ大陸に遠征して戦っているときです。
勝利を重ねるも支援を得られず、カロデンで敗戦
スコットランドで勝利を重ねる
1745年8月19日、ハイランドのグレンフィナンでチャールズが蜂起します。エディンバラを掌握し、9月にプレストンパンズの戦いで勝利します。
チャールズは「イングランドのジャコバイトからの支援が得られること」、「南イングランドには味方のフランス兵が上陸すること」をジャコバイト軍に約束します。これを受けてジャコバイト軍は11月にイングランドに入りました。
実際には支援を得られず、味方とも亀裂が生じ…
しかし12月4日、ダービーまで進んだところで、彼らは引き返すことを決断します。
彼らが進んできたルートはジャコバイトの多い地域でしたが、イングランド人から実質的な支援を得られなかったのです。イングランドの奥深くまで進んだものの、退却しようにも退路が危険な状態であり、非常に危険な劣勢に立たされていることがわかりました。かろうじて、スコットランドまで退却はできたものの、チャールズと支援者の間には亀裂が生じました。
カローデンの戦い
ジャコバイト軍は、1746年1月のフォルカークミュアの戦いで勝利をおさめましたが、劣勢を覆すほどの効果はありませんでした。物資が不足し、兵への支払いも滞ったままでした。いっぽうで、ジョージ2世の末男カンバーランド公爵 が率いる政府軍には、新たな兵や物資が供給されました。
ジャコバイト軍のリーダーたちにとっては、立ち上がって戦うよりほかの選択肢がほぼない状態になりました。
1746年4月16日、 ジャコバイト軍と政府軍は、ついに、カローデンで対峙します。地勢は、じゅうぶんな休息をとっていた政府軍に有利でした。戦いは、ものの1時間で決着がつきました。ジャコバイト軍が大敗を喫したのです。
1,500~2,000人のジャコバイトが落命、あるいは負傷しました。いっぽうで政府軍の犠牲はおよそ300人でした。
カローデンの戦いは、一連の「1745年のジャコバイト蜂起」における最後の戦いです。
スコットランドにはまだ、5,000~6,000の武装兵が残っていましたが、リーダーたちは解散を決意し、これによって、ジャコバイトの蜂起は終わりを迎えました。
ボニープリンス・チャーリーは、大陸に逃れました。
ジャコバイトの取り締まり強化
カローデンの戦いのあと、ジャコバイトとジャコバイトに同情的な人々に対する取り締まりが強化されました。この取り締まりが残忍だったとする説もあり、それゆえに、カンバーランド公爵には「ブッチャー(肉裂き)」のあだ名がつけられたともいわれます。
ジャコバイトの迅速な武装化に貢献したと考えられるスコットランドの氏族制( Scottish clan )の弱体化を図るための民事罰などが導入されました。
スコットランドハイランドは、よりいっそうグレートブリテン王国として統合されるようになりました。
1689年にはじまったジャコバイトの反乱は、比較的規模の大きい蜂起を1708年、1715年、1719年に起こしており、1746年のカロデンの戦いで、ついに終止符が打たれることになりました。チャールズは1788年に亡くなりました。
その悲劇は多くの民謡でうたわれ、今日まで語り継がれています。このカローデンの戦いのあとに作られたのが、今でも名曲とうたわれる『スカイ島の舟唄(Skye Boat Song)』(アウトランダーで有名になりました)と『ロッホ―ローモンド(Loch Lomond)』です。
結局、ボニープリンス・チャーリーをフランスから連れてきて、王位を奪おうとしたハイランドのクラン達(クラン=家)は一枚岩にはなれず、当時最強といわれたイングランド軍には歯が立たなかったわけです。100年以上続いた戦いは終わりましたが、イングランドとスコットランドの溝は深まるばかりでした。
このカローデンの戦いやジャコバイトはスコットランドを訪れると必ず耳にするワードです。本日は悲しい歴史のお話でした。
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